日本ではこれまで「周囲の空気や状況を読めない人や気付けない人」のことを"KY"という言葉で揶揄(やゆ)する風潮があったんですけど、最近では「人との対話によるコミュニケーション能力が未熟とみなされる人」のことを"コミュ症"と称したり、更には「社会の中で生きる事が難しい人」のことを"社会不適合者"とあからさまに見下すような造語も耳にするようになりました。👂
これらの言葉は時にいじめや差別に類するものと受け取れてしまうこともあって、もしかすると自分にも当てはまるのではないかとふと落ち込んでしまったり、中にはこれにより精神的に追い詰められてつい自分を閉じ込めてしまうことがあるかもしれません。😔
またこのような言動は世の中のストレスを如実に踏襲しているものでもあり、何よりこうした言葉を発することで自己の存在の優位性を図り、自己肯定感とストレスの低減に作用しているというだけではなく、相手に対する現状打破の後押しとして鼓舞しているように受け取ることもできます。😮
ただそれでもこの言葉を真に受けてしまう人にとっては、相手や周囲からそのように見られていることを強く意識してしまい、その同調圧力に一瞬で全身を覆い尽くされてしまうことで、もはや抗(あらが)う事もできずただ自己否定の渦中に陥(おちい)ってしまうだけのように思うんです。🌀
でもこれだけは知っておいて下さい、すでにこのシリーズを理解下さっている人ならもうお分かりかもしれませんけど、そう言う相手もただあなたを貶(おとし)めたり排除したいという人は少なくとも人としてみればほとんどいないばかりか、自身も以前そうした境遇に晒されていてそれに抗う努力をもって克服し今があるという人もまた数多いということを。💪
それにコミュ症とか社会不適合という言葉にはそもそも社会的な定義はなくて、その人個人が経験した常識の範疇(はんちゅう)から判断しただけの造語に過ぎないですし、あなたの存在や状態が社会的に否定されているわけではなく、たまたまその時の状況だけでそのように映っただけのことなんですよね。😓
多くの人間は自身の経験や常識からでしか他人を判断できない生き物ですから、今あなたができることはこれがあなた自身の表現方法でありそれ以上でもそれ以下でもないという自負を持つこと、そしてもし今のあなたが多少なりとも相手に迷惑をかけていると感じているのなら、自分を保ちながらその差分をゆっくりと減らしていく努力をしていけばいいだけのことなんです。💦
KYもコミュ症も社会不適合も社会的風潮の意味合いで一括りにされた単なる簡易表現で、この世にこうした障害や病状があることを意味するものではないばかりか、その時々のシチュエーションによって全世界の誰しもが当てはまるものでもあるんですね。👵
もしこうした言葉に心が惑わされて不覚にもストレスを感じているようでしたら、これは誰にでも当てはまることなんだとあっさりと割り切って、あなたが納得するあなた自身でいられればそれでいいだけなのですから。💖
またもしそれなりに心当たりを感じることがあれば、自身を見詰めることが得意なあなたならきっと誰よりもそれを早く克服できることでしょうね。😘
この世の中は常にリアルな人間関係と共に成り立つ世界であり、そうした経験を積むことで自然と自分という存在が培われていくものだけど、そこに怯(おび)えや恐れを抱いてしまうと前に進まなくなるからこそ、あなたはあなた自身であることを信じ周囲と比較し過ぎない意気込みが何よりも大切。。。
そのために今のあなた自身に何ができるのか、どんな行動に移せるのかが克服への重要なヒントになりそうな気がします。。。