あなたは普段、自分を指し示す言葉(一人称単数形)として何を使っていますか。🧓
私?僕?自分?俺?小生?。。。
英語だと「I」で表現しますし、中国語だと「我(wǒ)」、ドイツ語では「Ich」、フランス語は「Je」など、ほとんどの国々で自分の存在を相手に伝える時の言葉は、性別に関わらない一意の単語を使うことが一般的です。🌍
でも日本ではどうでしょう、女性であれば大抵は「私」という一意の単語を使うでしょうけれど、男性には「私」よりも「僕」や「俺」という男性専用(●●●●)とも思える単語を使う方が圧倒的に多いのではないでしょうか。👄
もちろん現代では多様性への理解も進み、男女を問わずこうした言葉をカジュアルに使える日本になりつつあるんですけど、それは今の若者だけに与えられた特権みたいなもので、このような性差による使い分けが当たり前だった昭和の時代を生きてきたご高齢の方々にとっては、なかなか受け入れにくいものなのかもしれません。😤
そもそもなぜこの日本で男性的な一人称単数形の単語が存在しているのかはよく分からないですけど、それを使うことで自分が男性であることを再認識させるだけでなく、相手にも自分が男性であることを意識させる意味合いがあるような気もするんですよね。😦
特に若い年齢の男子が「私」と言ったり女子が「僕」と言ったりすると、相手は即座に違和感が生まれ「男のくせに…」とか「女なのに…」のように悶々と非常識な目で見られ、時にはそれが元でいじめや嫌がらせを受けることも少なくないという、徹底して性を自覚させることに執着しているかのような時代だったと言えるのかもしれません。💨
そんな昭和の時代、男尊女卑(だんそんじょひ)という名の通り男性を尊び敬(うやま)い、女性は頭(ず)を低くし慎(つつ)ましやかにへりくだることを由(よし)とする風潮が強く、男性に特化した権威と象徴・優遇性に富んでいた時代のように思うんです。🏯
当時の家庭のイメージの一例を挙げるなら、仕事から帰ってきた夫を妻が出迎える際、玄関で正座をしつつ両手で三つ指をついて「お帰りなさいませ」と頭を下げる場面が分かりやすいかもしれません。🤏
でもそうすることで夫は改めて自身の存在に対する尊厳と感謝の意を思い、男冥利(みょうり)を感じつつ一日の仕事の疲れを忘れることができるだけでなく、家庭を重んじ妻を重んじる男性としての活力の源を再燃することができる、一見単純で今となっては性差別を助長しかねないかのような風習とは言え、当時の日本ではこれが日常的だったようです。🗾
そしてこうした歴史的な慣習は、今もなおこの日本国内の特定の地域では根強く生き続けているという現状があって、特に過疎化が指摘されている地方では東京のような人口の多い地域に比べ文化的な新陳代謝が停滞いることから、今ではタブーとされる男尊女卑の常態化に困惑している若者層も少なくないそうです。😭
このように少なくとも過去の日本において男尊女卑とは社会常識のひとつであり、その慣習を重んじることで国民生活が一様に成り立っていた時代でもあったことから、近年のジェンダー平等への意識や性の多様性の理解度において特にその時代を謳歌(おうか)してきた高齢者にとって難題であることは、現に今の日本政治を統括する重鎮(じゅうちん)のほとんどがその世代であることからみても、現実を伴うほどの理解を深めるにはまだまだ多くの時間を要することでしょう。🤔
その一方で世界の中でも屈指の男尊女卑大国だった日本の最中(さなか)に、水面下で人知れず悩み苦しんでいた今でいうLGBTの存在があったことは当時の多くの国民の知る由もなかった事実です。。。