いじめや嫌がらせって、それをする人やされる人それを目にする人を含めて、長い人生誰しもが必ず関わることかなって思うんです。💔
現に私もされる人でしたし、それに耐えながら今の人生がある多くの人類の一人なんですよね。👭
ひと昔前までのいじめってある意味節度(せつど)をわきまえているっていうか、変な言い方をすると「思いやりのあるいじめ」だったような気もして、ちょっと恥(はじ)をかかせてやろうとか、ちょっと痛い目をみさせて言う事をきかそうとか、あくまで相手も人間であることを分かっていて、ここまでのイタブリなら大丈夫だろうっていう、どこか無意識な安全機能が備わっていたものだったんです。🧡
そもそもいじめをする人の大半は、日頃から疎外感を抱いている悪く言うと「落ちこぼれ」的な立場だったので、そのはけ口としてのいじめや嫌がらせの対象が個人だけに留まらず、自らが属している世間…例えば家庭だったり学校だったり、また時には暴走族のように社会そのものにフラストレーションをぶつけるような、人間としての感情があるからこそのいわゆる「八つ当たり」行為的な印象でした。💢
だから特定の個人を心底嫌いになったからというのではなく、自分の存在を認めてほしいというような率直な心情の現れから、あえて自分を目立たせて意識を向けさせていたということもできるかもしれません。😛
その「落ちこぼれ」というのも、当時は単に学校における勉学への理解が追い付かなくなっただけのことで、自ら勝手に無能者という烙印(らくいん)を押してしまって、その疎外感からある意味自分をあきらめてしまったことに起因しています。😖
その人はただ勉強ができないだけで親から叱られ先生から叱られ、そして友人からは罵(ののし)られ他の生徒からも侮(あなど)られてしまうこともあります。😡
でもそれは何らかの理由で勉学に勤(いそし)しめない状況下に置かれていたり、勉学そのものにこれから社会を渡っていく上での必要性を感じていないことなどで、自分の中で前向きに取り組めない思想が芽生えているからなのかもしれないのです。🦾
例えば微分積分や化学組成が理解できても、実際その人の人生にとって有意義に働くとは限りませんし、社会的優位性を推し量る上での指標としてそれが必要だったとしても、そんな優位性なんてクソ食らえとさえ思えれば、今の世の中いくらでも人生を謳歌する手段はあると思います。💖
そんなこんなで当時10代の若者の自殺率はとても低かったのは言うまでもありませんし、フラストレーションが「正しく」発散できていたからこそ今の社会が成り立っている気がするんです。🗾
何よりそんなくだらない(●●●●●)ことで自分をあきらめるどころか、一刻も早く社会に出て本領を発揮してやろうという、負けん気の強い前向きな意気込みが社会のけん引役になった結果、あの有名なバブル時代となって発現したと言っても過言ではなさそうですね。💪
やればできる💘
これが真実だからこそ、今この世にあなたが存在しているのです。💑
これまでは。。。