私たち人間を含む哺乳類はほぼ例外なく母親から遺伝子と細胞を受け継ぎ産まれいずるのは言うまでもないんですけど、そのきっかけとなるのが父親からの遺伝子提供によって初めて生命として宿ることになるというのも今更言うまでもないですよね。🤰
その逆にDNAを調べることで産みの母親そして遺伝子を提供した父親もまず間違いなく特定することができるのも現代ならではですし、もし何かの理由で親と離ればなれになってしまっても限りなく高い確率で再会することも可能な時代になってきています。👪
とは言え幼少期の多くは実の父親と母親もしくはゆかりある親族の下で命を育み少しずつ確実に成長を重ねながら、いつしか独り立ちができるようになっていくという生命の循環プロセスに従い、その命が尽きるまで限りある時を刻み続けていることになります。👧
そんな実の父親と母親や親族に育まれていく子供の視点では、こうした状況がごく普通の自然な姿として言葉にできない安らぎや心地よさを覚えつつも、常日頃から自身の身を守ってくれていると意識することはまずないでしょうし、あまっさえ自身を育てることが親として当然の責務であるかのような認識さえ抱くことがあるかもしれません。😓
子供の成長過程においては突然こうした大人びた発想が芽生えることも決して珍しくはなく、近年増加していると言われる共働きの家庭で育つ子供の中には、表面には出さないものの自身への一定の愛情が感じられなくなることへの些細なストレスの継続・常態化により健やかだった心情が次第に保てなくなることで、時に今の状況を親から裏切られたと錯覚(●●)したかのような感覚が芽生えてしまうことがあるようです。😈
それはいい意味で言えば一見正常な自我の覚醒と見て取れるのかもしれませんけど、それよりも漫然とした意識下のストレスから生じる脳へのネガティブな自己暗示とも言えるのかもしれません。🧠
そもそも親子関係には明確な絆という意識は存在しないのが自然であるということと、第二次成長期を迎えるにあたり人として新たな自我の目覚めによって、自分自身の存在をどのように認識し親の存在をどのように理解できるようになるかが、その先の人間性に大きく関わってくるということを短絡的に無視すべきではないと思っています。💡
なぜなら人間だからこそ人間としての成長段階にある幼少期から脱皮して、これまで体験してきた記憶をさかのぼり本来の人間性を培う人としての土台が形成されることになると思えるからなのです。💗
ここで肝心なことは、必ずしも実の両親でなければいけないとか恵まれた生活実態であればいいとか、そうした周囲から感じ取れる見栄えのいい舞台に頼ったものではなく、あくまで子供が何を願い何を求め何を正とするのかを常に気に掛けておくこと、つまりそれは子供との対話や思慮を通じて理解を深めようとする意気込みがあるかどうかということです。🥰
もちろんその頃の子供が正直に自身の気持ちを口にするとは限りませんし、それどころか自身の意に反した行為さえすることもあるけれど、それは相手が自分のことをどう思っているかを真剣に知りたがっているだけであって、それが本心がどうかを理解してあげられるのは心の傍にいた人か同じ境遇を経験した人だけ。💕
産みの親より育ての親と言うように、たとえ実の親でなくてもそれとなく子供の心情を察し人として接し続けることで、それこそが子供にとって最大の癒しと安らぎをもたらすようになるのですから。💖
もしも家族や恋人(片思い含む)から裏切られたと感じた時、そうすることである意味では意図的に自身の成長を促(うなが)しているか、またある意味では人間性のかけらもない自分善がりな俗物であるかのどちらかと捉えていいかもしれません。🔥
そしてこうした人生の中で最も深い心の絆であるがゆえに、安易な裏切りの状況を作り出すことは得てして命の危険にも直結することを自覚するべきではないでしょうか。。。